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「国の偉大さと道徳的発展の程度は、動物の扱い方で判断できる」は本当か?


 

「国の偉大さや道徳的発展の程度は、その国の動物の扱い方で判断できる:The greatness of nation and its moral progress can be judged by the way its animal are treated.」

 


この言説は、ガンジーのものとして広く世界で引用されている。しかし、世の中には奇特な人がいるものである。実際にガンジーがこれを言ったのかを、公表されている著作をすべて点検した人がいる。オーストラリア人のPhilip Johnson氏である。彼の調査によると、ガンジーは動物の扱いに関しては言及しているが、それをもとに「国の偉大さや道徳的発展の程度を推し量ることができる」とは言っていないようである。したがって、この言説そのものをガンジーの言葉として流布することは適切ではない。


ガンジーは、「わたしに取ってのウシの保護は、単なるウシの保護ではありません。それは世界の弱い、生きるすべての命を護ることを意味します。ウシは、人以外の世界全体を示すものとなります」ということを言っている。この言説はどの程度まで深読みすることが許されるだろうか。

この言説に込めたガンジーの真意はどこにあるのかを考えてみる。ヒンズー教においてはウシは護られるべき存在である。インドの法律においては、ウシの殺生は禁じられている。そうした文化的背景がウシに対する認識にあるという理解に立てば、ガンジーが「ウシは、人以外の世界全体を示すものとなります」と言っているように、ウシを象徴的に扱うことによって、一般論としての「人以外の命」の保護を訴える言説とすることに特段の違和感はないだろう。


そして同時にそれは、ウシを象徴的に扱うことによって、インドの文化としての社会ひいては国としての命への立ち向かい方に、政治指導者として言い及んでいると捉えることができるのではないだろうか。それはすなわち、インドにおける宗教的動物感として、ヒンズー教をはじめ、仏教やジャイナ教などが不殺生を標榜しているその社会あるいは国家の優秀さを内に秘めているとも取れるだろう。


また、命の奪い合いにもつながる暴力ではなく、非暴力での政治的運動を訴えたガンジーにとって命の扱い方は社会としての善悪の観念すなわち道徳と切り離せないものだったろうことは想像に難くない。


ガンジーの態度や信念をこのように捉えるならば、そこから「国の偉大さや道徳的発展の程度は、その国の動物の扱い方で判断できる」という視点を得ることは、深読みとして有り得るのではないか。ヒンズー教徒の誰かが捏造した言説だと、この論文では指摘されている。ガンジーが実際に言ったものとするのは、偽りのものとして許されないだろう。しかし、「生きるすべての命を護る」姿勢を持つことを社会の在りようとして求めたということは、それに近づこうとする社会が高く評価されるということにつながる。


したがって、ガンジーは自らが発したものとしてこの言説を残していないが、その意志としてこの言説で表されてことを求めていたに違いないと捉えることはできるだろう。

(文責:上野)

 

参考文献

Mahatma Gandhi Hoax Quote Greatness of a nation and its moral progress can be judged by the way that its animals are treated https://animalsmattertogod.com/2013/09/13/mahatma-gandhi-hoax-quote-greatness-of-a-nation- and-its-moral-progress-can-be-judged-by-the-way-that-its-animals-are-treated/

 

動物の福祉と権利に関心を持つ多くの人々が、マハトマ・ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi, 1869-1948)の名言を利用している。 インターネットのウェブサイトやブログ、人気のある本や雑誌の記事、専門の学 者(動物の権利の弁護士、倫理学者/哲学者、神学者)による本はすべて、ガンジーがこのようなことを言ったと主張している。 国家の偉大さとその道徳的進歩は、動物の扱い方で判断できる。 私は、ルイス・レゲンシュタインの『リプレニッシュ・ザ・アース』(ニューヨ ーク:クロスロード、1991年、225ページ)から上記の引用を書き写したところ である。レゲンシュタインは、この引用文をどこから入手したのかを文書化する ための注釈を提供していない。ガンジーに帰属するこれらの言葉に関してこのようなことをしているのはレジェンシュタインだけではない。 ケネス・バルコム三世も典型的な例である。


 私は、サム・リッジウェイ(2008年)の『歴史的視点』の中に、マハトマ・ガンジーの引用文が含まれているのがとても好きである。すなわち"国家の偉大さと道 徳的進歩は動物の扱い方で判断できる" というものである。野生動物の仲間がどのように扱われているかということにまで拡張して、私たちが彼らを所有している という考えは一切排除したいと思う。私たちが地球と呼ぶこの惑星で、彼らと一緒に時間をかけて旅をしているということはそれ以上のものだが、ガンジーはそ れを知っていたと確信している。 バルコムの提案に続いて、私はサム・リッジウェイのエッセイ 『獣医学と海洋哺 乳類の歴史:個人的な視点からの考察.Aquatic Mammals 38:4 (2008): 471- 513』を見ても何ら不思議ではない。リッジウェイは彼の論文の冒頭でエピグラフ の文としてガンジーの引用をしているが、ガンジーの引用がどこにあるのかにつ いての脚注あるいは引用文献はない! 他の作家は脚注を提供しているが、バルコムがおこなったように情報源はいつも他の著者からの引用にあり、誰もガンジーが実際に書いた何かを直接示してはいい。


 このブログの前の記事で、私はキリスト教の父である聖バジル大王に起因する二 つの動物に優しい祈りの「デマ」を明らかにした(7部作シリーズのパート1はここから始まっている)。聖バジルに関する私の投稿で、私は証拠の貧弱な連鎖を 暴露した:祈りは聖バジルが書いたものにも聖バジルの典礼にも見つけることができなかったのである。私は、二つの祈りが20世紀初頭に作曲されたという事実 を立証した。私は、あらゆる種類の動物活動家(一般的なものでも学術的なもの でも)に、引用や引用の元となる情報源については、きちんと下調べをおこなう よう、ここで改めてお願いしていると同様にその時もお願いした。 ガンジーの引用の妥当性を疑うべき第一の理由は、聖バジルの祈りと同じように、同じ引用のバリエーションが存在するという事実が中心となっている。 上記のバリエーションの一つは、次のように書かれている。 「国家の道徳的進歩とその偉大さは、動物の扱い方によって判断されるべきである」


 もう一つのバリエーションは、『ヒンドゥー教とは何か』という本の中に出てくる。テキストは、Hinduism Todayの編集者によって準備された。309ページに掲 載されている引用である。 「国家の偉大さと道徳的進歩は、動物の扱い方で測ることができる。 私にとって の牛の保護とは、単なる牛の保護ではない。それは、世界で生きている、無力で 弱っているすべてのものを保護することを意味している。牛とは、人間以外の動の世界全体を意味する」

私は、インド政